あらびきZONE

カメラとMacと競馬を愛する大学生の不定期雑ブログ

祖母の死

先月末,祖母が亡くなった.

 

享年73歳.現代医療の発展からすれば若いほうだったと思う.

祖母とは幼い頃から一緒に暮らしていた.私とは齢がちょうど50離れていたので,齢一桁の自分が数を数えられるようになると,決まって自分の歳に50足して祖母の年齢も行って回ったものだった.

祖母はとにかく優しい人間だった.対して母は比較的怒りやすい人間であった.祖母がそうであったから必然的にそう見えたかもしれないが,母は感情が表に出やすいタチでであったことは間違いない.私自身も祖母に怒られた記憶は一度もなかった.

 

祖母は私がすることはなんでも応援してくれた.大学進学を機に地元を離れることになった時も,心配する母を横目に「きっと大丈夫,心配ない」と快く送り出してくれた.この時すでに祖母は闘病の最中であった.

改めて聞いてみれば祖母は10年近くにわたり闘病生活を続けていた.私が何も考えずに生きていた中学生自分の時からだ.日頃生活している中でも,祖母が飲む処方箋の薬の量が増えていることは薄々感じていたが,年齢の重なりからくる自然なものと思い込んでいた.

 

大学入学式の日,退屈な学長の話を聞くためにわざわざ地元からついてきれくれた.しかし,その前日に祖母は足をくじいてしまい歩くのも一苦労であった.その時支えた体がひどく軽くなっていたことを私は直視できずにいたのだろう.

長期休暇の折に帰るたび,弱っていく祖母の体を見るのが辛くなった.外出が減る,食べる量が減る,呼吸器,車が運転できなくなる,入院.いつかくるその時,しかしその時はまだ当分先の未来だとたかをくくっていた.

 

祖母はいつからかある言葉を使う言葉が増えた.「ごめんね」だ.私が家事を手伝うと「ごめんね」,通院のために車を運転すると「ごめんね」.私は子供の頃からたくさん買い物や家事をしてきたもらったし,車で送り迎えをしてもらったこともあった.それをたったの数回逆の立場になった時にかけられた言葉に,私は当時自分がなんと応えていたのかを思い出せなくなってしまった.

 

私の卒業,就職を祖母はそれはもう喜んでくれた.在学中は帰省のたびにお小遣いを湧き出るようにくれたし,東京での生活のためだと大金も渡してくれた.そのほとんどに,私は手をつけられずにいる.

祖母が亡くなる前日,母から祖母が入院したとの連絡が入った.今までも入院することはあったが,その度合いはひどくなっていく一方だった.私が帰省しているときに肺炎を発症したり,昨年末には私が地元を離れている時に風呂場で倒れていたなんてこともあった.その連絡では,朝トイレに立ったはいいが,出たところで自分の足で立てなくなったという.救急車で搬送され,入院する運びとなったが,病室に着いた時には意識もはっきりしていたという.

その日の午後,家族が着替え等を持っていくと,午前中まであれほど明瞭だった祖母が「ここって病院なの?」と尋ねたという.昨年末の入院以来,祖母は認知症の気があった.病気の様子を聞いてみれば無理もない.祖母は二つの臓器を患っていた.肺は収縮しづらくなり,心臓は血液を送りにくくなっていた.もはや日常生活すらまともな意識で送れていなかったのではないだろうか.

 

私は新卒一年目だ.現場に配属されて以降ずっと携わっていたプロジェクトがようやく完遂を迎えた.九ヶ月間に渡るプロジェクトであった.今度帰ったらそのことを話そう,と思っていた矢先の悲劇だった.

もし私がこの成功体験を得ないまま祖母が逝ってしまっていたらどうなっていただろう.きっと立ち直れていなかった.何者にもなれなかった私がどうこうできるものではないだろう.私がすがれる一本の柱.その完成を見届けて祖母は旅立ったのかもしれない.

祖母は最期の間際,周りの人に感謝の言葉を述べていたという.その場にいなかった私を含めて.最期,呼吸器の調整によっては,意識が朦朧として安らかに逝ける選択か,意識は戻り多少(それも持って数時間から1日)命が保つが病気苦しみを伴う選択をその場にいた家族に医者が迫ったと聞いた.私が病院に着いたのは祖母の死の知らせを聞いてから約2時間のことだった.

あと2時間.多少でも苦しみを我慢して待っていて欲しかったいうのがその時の本心だ.私が病院に着き,死化粧を施された祖母の顔を周りの人は「笑っているようだ」と言ったが,私には,いまにも泣き出しそうに苦しんでいる顔に見えた.

 

それから数日の準備を経たのち,祖母の葬儀を執り行った.

家族葬を希望した祖母の意向に反して,一般的な葬儀を執り行った.通夜や挨拶の席でいろんな人から祖母の話を聞いた.知らない祖母の姿が浮かんだ.火葬に送る直前,ようやく祖母が笑っているように見えた.残ったのは白い骨.しかし,今でも瞼を閉じれば祖母のあの明るい笑顔が目に浮かぶのだ.